善福寺の法宝物

越路なるあらちの山に行き疲れ 足も血潮に染めるばかりぞ (親鸞)

親鸞聖人が越後に配流される際、滋賀から越前を超える際に、現在の敦賀市山中の愛発(有乳(あらち))山を通られた時に詠まれた歌らしいです。
 今の国道161号線ででもかなり険しい峠ですが、歌の内容からも昔はもっともっと厳しい峠だったような気がします。
 ネット検索してみると、愛発(有乳)「あらち」は天平時代には既に関がおかれていたという事で、はるか昔、古代からの交通の要所だったようです。
 実は「あらち」の事を知ったのは、親鸞の詠んだ歌からではなく、うちのお寺にあるこの掛け軸を見たのがきっかけでした。
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 これは、今で言うご朱印帳のようなもので、当時の越前のお寺で発行していたものを集めて、一軸にまとめたもののようです。
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真ん中は「誠照寺」発行(執事 西福寺)で、寛政3年(1791年)6月の年号がかかれています。220年ほど前のもののようです。
右側は、和田の「本覚寺」さん発行のもの。開基「親性」とあり、越前の由緒真宗寺院であることを物語っています
そして、左側には「有乳山 光傳寺」とあります。これには年号が書かれていませんが、おそらく、真ん中の誠照寺のと同じくらいではないでしょうか?
「親鸞聖人御真筆 三方正面阿弥陀如来」とかかれその後に「越路なる・・・」の歌が書かれています。
 このお寺の事は全く知らなかったのでちょっと調べてみました。昔の敦賀郡史を見たところ掲載されていましたので転載します。
「廃寺 光傳寺、浄土宗海津正行寺末、その薬師堂の薬師如来は、傳教作、又寺に親鸞筆三方正面弥陀影像を傳えたりと云う。二十四輩順拝図会に親鸞越後へ流されし時、此所にて「越路なるあらちの山に行なやみ、足もちしほに染るはかりぞ」と詠れたりあり。此歌を勒せる文化十一年建てし所の碑、今址業葬の間に残れり。寺は明治維新の後廃絶す。」 とあります。
 敦賀市山中にあった親鸞ゆかりの浄土宗のお寺で、明治以降に廃寺になってしまったようです。なるほど、御朱印の内容のとおりの事が書かれていますね。

 ちなみに宝物の「三方正面阿弥陀如来」とは、絵像が大きいので、斜め左から拝んでも、斜め右から拝んでも、仏様が正面にいらっしゃるように見えるという意味らしいです。今流行の3Dにも通じるものがあるのでは!? 本願寺系では早い段階から「方便法身尊像」と言っていたようです。
 この宝物が今どこにあるのかは私は知りませんが、親鸞聖人配流の際にさかのぼる、ゆかりのお寺だったことは確かなようです。
 思わぬところで昔の歴史に触れさせてもらうものですね。

(現在の敦賀市山中(国道161沿い)の有乳山光傳寺跡と思われるところに建てられている石碑です。親鸞の歌が彫られています)
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(敦賀市山中の秋の風景)
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如覚上人ご影

道性上人の子(門弟)で、誠照寺の開基といわれる如覚上人は、1321年に真照寺を建て、後の1437年に後花園天皇の勅願によって誠照寺と改名されたといわれています。
 ここ善福寺に所蔵の絹本着色「如覚上人御影」は、裏書(証明書)によれば、1702年(元禄15年)5月5日に誠照寺17代「秀如上人」から善福寺9世「智善」宛に下付されているものです。300年以上の長きに亘り、本堂内陣の法物として下げられています。
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 絵像は、やや左向きで畳台に座り、黒衣・墨袈裟着用、数珠を両手に持っているものです。
本願寺教団の「蓮如上人御影像」とお姿が良く似ているので、本願寺教団に見習って作った絵像だと思いますが、そもそも如覚上人がどういうお顔をされていたかは誰も分かりませんね。
おそらく想像で描いたんじゃないかと思うのですが、誠照寺派の願養寺さん所蔵の「如覚上人像」(岐阜県文化財指定)の写真を見たら、うちのと顔やお姿が良く似ています。なので、如覚上人のお顔の元絵があって、それを見て同じように描かれたものだと思いますがどうなんでしょうか。
尚、善福寺の御影像は「親鸞聖人御影像」と共に、明治36年4月に福井市木田の表具屋さんへ修理に出され、6月10日に寺へ戻ってきたと記録にあります。

(裏書の内容)
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*       釋秀如(花押)
*       越前州丹生郡大森村善福寺
* 上野山誠照寺如覚上人御影 常住
*       元禄十五壬午暦五月五日
*             願主釋智善
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尊号真像銘文

現在開催中の「親鸞展」にも複製本が出品されている、尊号真像銘文についてちょっと調べてみました。
尊号真像銘文とは、親鸞が、本尊とする名号や経論の要文を集めて、その大意を記したもので、略本と広本がある。
とのことです。広本の方は現在の伊勢の高田派本山専修寺に伝わったもので、親鸞展に出展されている複製もこちらです。一方、略本の方は、かつて伊勢と本寺争いをしていた越前にあった常磐井宮真智上人の専修寺(後の法雲寺)に伝わったようです。
法雲寺さんに伝わっていた略本の方は、建長7年(1252)6月2日、親鸞が83歳のときに、覚信にあてたもので、のちに昭和41年6月、国の重要文化財に指定されたとのことです。
尊号真像銘文表紙


これを翌年昭和42年に、故・赤松俊秀氏監修で法雲寺さんから影印本を出されたものがうちのお寺にあるので、ちょっとこれを読んでみたのですが、原文はなかなか難しいですね。
尊号真像銘文本文


尊号真像銘文本文最後


ぼちぼちと原文を読んでみようと思いますが、本意を理解できるかどうかは分かりません・・・。

尊号真像銘文カバー

複製本でもかなりリアルに作られており、カバーも忠実に再現されているのが興味深いです。
カバーには専修寺真教上人のサインで、尊号真像銘文のページ数や目方がどれだけあるかも書かれていて、当時からとても貴重な宝物として大切に守られてきたことが分かりますね。

法宝物(かつての本尊)について

善福寺に伝わっている、かつて本尊として門徒のあつい信仰をうけていたであろう、先人たちの思いがこもった貴重な法宝物を何点かご紹介いたします。

まずは、阿弥陀様の絵像です。
三方正面阿弥陀如来 伝恵心僧都御筆「三方正面阿弥陀如来絵像」です。高田専修寺(越前)の真教上人から息男と共に下付されたと寺伝にあります。いわゆる「方便法身尊像」ですが、本願寺教団以外では結構後の時代まで、「三方正面阿弥陀如来」(どの方向から拝んでも正面に見える)と呼んでいたらしいです。
 専門家によれば、これは本願寺教団が蓮如上人の頃から用いていた、室町時代(1490年~1500年頃)の絹本着色の方便法身尊像であるとのことです。寺伝が正しければ、何らかの理由で越前熊坂の専修寺に伝わり、それが当寺に伝わったものと思われます。
この絵像に裏書はありませんが、正徳4年(1714年)に誠照寺17世の「秀如上人」から定書を別途いただいています。
(定 一 恵心僧都御筆三方正面阿弥陀如来無相違者也 正徳辛午四歳五月四日 誠照寺 釈秀如(花押))





こちらも阿弥陀様の絵像です。
阿弥陀如来絵像 こちらは紙本着色のものです。
見るところかなり古筆だと思われますが、年代、由緒等は不明です。前住職は「笑う阿弥陀さん」と言っていました(笑














 次に、名号本尊です。こちらは、放光十字名号です。
放光十字名号本尊
絹本に載金と金泥で書かれた「帰命尽十方無碍光如来(きみょうじんじっぽうむげこうにょらい)」の“十字名号”です。1500年前後のものでしょうか。
特徴は本願寺教団(蓮如上人、実如上人の頃の無碍光本尊は光明が48本)と違って、当寺のは光明の数が45本しかありません。原始真宗門流で使われていたものや、誠照寺教団で往古使われていた十字名号は光明が48本無いものが多いとの話もあります。









 六字名号です。
伝弘法大師筆六字名号「南無阿弥陀仏」のお名号ですが、よく見ると筆書きのものではありません。さらに、かなり古いものを裏打ちしなおして表装してあるようです。道場の本尊としてかけられていたものでしょうか。下から拝んでも真正面に見えるようにか、上に行くほど文字が大きくなっています。
寺伝では伝・弘法大師筆ということになっています。













十高僧連坐像(天竺震旦高僧連坐像)です。
インド中国十高僧連座像インドと中国の高僧を描いたものと思われますが、古くて横の札名が読めません。岡崎「妙源寺」様に伝わる、光明本尊(3軸で1揃のもの)などと同種のものかと思われます。仏光寺系などで使われていた、1軸の大型の光明本尊を切り取った可能性もありますが、背景に光明がないので、元来これだけで単独の絵像と思われます。誠照寺史によれば、「往古九高僧なる連座御影を使用した形跡がある・・・、道性如覚の没後光明本尊別開きの絵系図流行を見た当時として・・・云々」とのことなので、三河の専海系の流れを汲む門流などでは、日本の高僧図とインド中国のこの高僧図を別軸として、名号軸と3軸で1セットとして使われていたと思われます。
対となる日本の高僧連坐像(鯖江派の九高僧図)もかつてあったはずですが、現在当寺には残されていません。
 現在、当寺の余間に掛けられているいわゆる七高僧と聖徳太子像の裏書が「正徳4年(1714年)」ですので、それまでは脇掛けとしてこの古いタイプの連座像が拝まれていたのではないかと思います。

 先ほどの三方正面阿弥陀如来の定書も正徳4年なので、どうもこの年に内陣の宝物をがらりと変更したのではないかと思われますが真相はいかに・・・・。
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