善福寺は古文書や当村に伝わる言い伝えなどによると、南北朝時代の頃、宮方に仕えていた大森某という武将(大森二郎時秀とも言われる)が大森の天目山城を築いたのち、ふもとの高台一帯(のちに安野谷と呼ばれる)あたりにかつてあり、寺は寺領100石、境内地2500坪あったとされています。
おそらく、山城の麓の念仏道場などの寺庵をおく、中世城郭だったと思われます。
 時代は下り、戦国時代の1577年(天正5年)頃、織田信長と一向一揆勢との争いで焼き討ちにあい、大日堂以外の堂宇をすべて焼失。現在でも、城郭の楼門があったところを「大門」、大日堂跡を「堂の上」として呼び名が残っています。かりん手の神様として村人に拝まれていた大日堂ご本尊の大日如来像は明治時代の廃仏毀釈のおり、裏山の天日神社に合祀されたようです。


かりん手の神様  大門







大日如来「かりん手の神様」と現在の「大門跡」。この上の谷(高台)一帯を「安野谷」という









 その後1594年(文禄3年)に「道円」と申すものが天目山麓へ堂宇の再建をしました。江戸時代に入り、寺院諸法度制定などをうけ、1610年(慶長15年)に当寺は真宗高田派(本山は越前専修寺)になったと伝わります。越前専修寺は常盤井宮家より入寺した真智上人が現在のあわら市熊坂に興した高田派の越前における本山でした。真智上人が亡くなった後の1617年(元和3年)に高田専修寺はここから比較的近い、殿下村の畠中・謡谷(現福井市畠中町)へと移転をし、その後いつの頃か善福寺は、この畠中専修寺の真教上人より息男を貰いうけて寺を存続させたと寺伝にあります。その折、伝恵心僧都筆「三方正面阿弥陀如来」絵像などの法物を譲りうけ、白滝村(現・福井市白滝町)全戸が善福寺檀家になったとされており、白滝には現在も白滝道場があります。
 1634年(寛永11年)、三重の高田専修寺から本寺争いで訴えられた裁判によって、畠中の専修寺側は破却され、それに伴い当寺檀家も散り散りになったとされています。
 同年12月付の「本山誠照寺所蔵文書」に、大森村善信(善福寺の先住職)から誠照寺14代秀山上人宛に、白滝村道場の名号の裏書きを書いた事がご法度であった由の詫状が残っており、この時にはすでに大森の善福寺は誠照寺派に属していたことが分かります。
 その後1688年(貞享5年)には、「善哲」(善福寺8代住職)が鯖江本山誠照寺中興の祖といわれる、秀諴(しゅうかん)上人より「親鸞聖人御影像」の裏書をいただいています。
 以来380年に亘り本山誠照寺の末寺として、ご門徒の支えを得て法灯を今に継いでいます。

 江戸中期の1754年(宝暦4年)に裏の岩山を削って本堂を再建したとされており(門徒総代大森家文書)、明治23年の寺文書からその本堂や境内の様子がわかります。
善福寺明治時代の図カラーS

(江戸中期から明治時代にかけての善福寺全景図。正面の小さな桜の木がのちの天然記念物に指定されたもの。左側にある大木はその親木だったとのこと)(カラーはコンピューターで合成したものです)

 現在の本堂(七間四面)は1912年(大正元年)「安野源智」(18世住職)の時に建立を開始し、十余年をかけて落成しました。前住職「亮雄」(20世)の代、1993年(平成5年)から、絵師・安川如風師の手により、本堂内陣、外陣の彩色を施工し、1996年(平成8年)には現在の庫裡を完成しました。

 境内にあり、旧清水町の天然記念物にも指定されていた「しだれ桜」(通称 薄墨桜と呼ばれた)の大木は、2004年(平成16年)の3月6日早朝、降雪による重みに耐え切れず倒木してしまいました。
善福寺桜

(ありし日のしだれ桜)

桜倒木朝日新聞補正

(倒木した翌日の新聞記事の写真)


 2009年(平成21年)から現住職「安野元紹」第21世が引き継いでいます。


貞享5年(1688年)の誠照寺「秀諴上人」からの親鸞御影像の裏書親鸞聖人御影裏書

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        釋秀諴(花押)
       越之前刕丹生郡大森村善福寺
上野誠照寺親鸞聖人御影
       常住
       貞享五季戌辰九月翔日
               願主釋善哲
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※以上は、善福寺蔵文書(享和元年、文政13年、嘉永7年由緒書)、同蔵法宝物裏書、大森家文書、誠照寺文書、福井県史、清水町史を参考にしました。<2014年1月加筆訂正>