先般の前坊守の通夜・葬儀には皆様にお参りを頂き、又御香料等を頂戴いたし誠に有難うございました。
今年は年明けからコロナ感染症により生活のスタイルそのものが変わってしまいました。
又大雨による災害や近年は台風による被害、心配される大地震など、疫病と災害に苦しめられる時代だと思います。
しかし歴史を見れば、平安時代終わりから鎌倉時代にかけて生きた鴨長明(かものちょうめい)の「方丈記」によれば、当時もまた、「疫病」「飢餓」「災害」が相次ぐ時代だった様子が書かれており、その後それに起因する「戦乱」が長く続いたことが分かります。

ビスマルクの言葉に、「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」とありますが、目の前の苦しさに右往左往、四苦八苦している時こそ、先人が歩まれた歴史に今の私たちの生き方を学んでいきたいものです。



(以下:方丈記の現代語訳)
流れていく川の流れは絶えることがなくて、それでいて、(その水は刻々移り)もとの水ではない。
流れの淀んでいるところに浮かぶ水の泡は、一方で消えたかと思うと、一方ではまたできて、いつまでもそのままの状態で存在していることはない。

このように生まれてきている人と住まいも、また、同じようなものである。
玉を敷きつめたように美しい都の中に、棟を並べ、屋根の高さを競っている(ように並んでいる)身分の高い、また低い人々の住まいは、幾世代を経てもなくならないものであるが、これらの家々が本当に昔のままで残っているのかと調べてみると、昔あったままの家は珍しい。

ある場合は、去年火事で焼けて、今年新しく作っている。
ある場合は、大きな家が滅んで、小さな家となっている。

住んでいる人もこれと同じことである。
場所も変わらず、人も大勢いるが、昔見知った人は、二、三十人の中で、わずかに一人二人である。

朝に死ぬ人があるかと思うと、夕方に生まれる人があるという人の世のならわしは、全く水の泡に似ていることである。
私にはわからない、生まれる人死ぬ人は、誰のために苦心して(建て)、何のために(飾り立てて)目を喜ばせようとするのか。

その、家の住人と住まいとが、どちらが先に滅びるかを競っている様子は、例えて言えば、朝顔と、その上に置く露との関係に同じである。

ある場合は、露が落ちて、花が残っている場合もある。
しかし、残っているといっても、朝日にあたると枯れしぼんでしまう。

ある場合は、花が先にしぼんで、露はまだ消えないでいる場合もある。
しかし、消えないでいるといっても、夕方まで消えずにいることはない。


※(方丈記にはこの後、安元の大火、治承の竜巻、養和の飢餓、元暦の地震などの記述が続きます)