善福寺の歴史は500年以上前にさかのぼります。
1330年代の南北朝時代、越前の地は後醍醐天皇の南朝方と足利尊氏の北朝方に分かれて激しい戦いが繰り広げられました。
ここ、志津荘大森のあたりも南朝方に属する護良親王や新田義貞方の武士が逗留したといわれており、要所である大森天目山にも山城を築いたと伝わっています。古文書によれば、善福寺は元々天目山山城ふもとの安野谷(あのたん)(南朝方武士の阿野(安野)氏の館があったのでそう呼ばれていたと思われます)という城郭内にかつてあり、寺は寺領100石、境内地2500坪あったとされています。もともとは戦乱で亡くなった一族を弔う目的でお寺が作られたものと考えられます。
 1500年代、激しくなる一向一揆勢と戦っていた高田派や誠照寺派などの出城となっていたと考えられます。のちの1577年(天正5年)の織田信長と一向一揆勢との争いで焼き討ちにあい、ほとんどの堂宇を焼失しました。現在でも、楼門があったところを「大門」、大日堂跡を「堂の上」として呼び名が残っています。大日堂のご本尊であった大日如来像は今も裏山の天日神社に合祀されています。
その後、1594年(文禄3年)に「道圓」が寺の再建をし、当初は真宗高田派に属していたのが、江戸時代初めの宗門改めの際に真宗誠照寺派(じょうしょうじは)となったとされています。以来400年にわたり本山誠照寺の末寺として、ご門徒の支えを得て法灯を今に継いでいます。1754年(宝暦4年)に安野谷から現在地へ移り、堂宇の再建をしたとされます。
現在の本堂は1912年(大正元年)に18代住職「源智」の時に建立を開始し、十余年をかけて落成したものです。19代住職「亮雄」によって、1993年(平成5年)から本堂内陣、外陣の彩色を施し、1996年(平成8年)に現在の庫裏が完成しました。2009年以降、現住職は安野元紹(第21世)です。
善福寺明治時代の図カラーS
(江戸時代〜明治時代頃の善福寺のようす)