以前、うちの「寺報」に掲載をしようと思って、ここ志津地区の歴史について調べて、文書を書いたのですが、あまりに文章が長すぎて、読んだ人全員眠くなるような気がしたため掲載を見合わせていました。
でもせっかく書いたので、その代わりにブログに載せておくことにしました。
まぁ、地元でもおそらく知られていない話です。
お暇な方、眠れない方はよろしければどうぞ ↓
でもせっかく書いたので、その代わりにブログに載せておくことにしました。
まぁ、地元でもおそらく知られていない話です。
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ここ志津地区は古墳や土器の発掘にも見られるように古代から人が住みついていました。その後律令制度であった奈良時代、丹生郡の名前が始めてみられるのが西暦731年(天平3年)越前国税帳面(正倉院文書)で、その中でもこの志津あたりは、古くから賀茂一族が住み着いて、その氏神様である(ワケイカヅチ外祖父カモタケツニミ)を祀る式内社雷神社(賀茂神社)を中心とした「賀茂の郷」と呼ばれていたようです。(平城京二条大路長屋主家木簡などにその名がある)その後、都の貴族や大寺院、大神社、地方の豪族などの資本を持つものが、地方に私有地を持って自分たちのための農作物を得る「荘園」が作られるようになりました。旧清水町の片山のあたりには奈良東大寺の荘園がありましたし、この志津地区には西暦1090年(寛治4年)に京都下鴨神社による「賀茂御祖領志津庄」が開かれました。志津庄には40町の田地が下鴨社に寄進され、この田で取れるものは年貢を国に収めず寺社の収入にあてることができるものでした。志津の庄は、大森、上天下、山内、清水畑・平尾、笹谷・本折、滝波、末、の9つの集落のことをいい、その中に40町の広さの荘園があったようです。今でも大森出村には「加茂田」の地籍がありその名残だと思われます。大森に今も伝わる「睦月神事」はかつては先ほどの志津の2か村ずつが組んで毎年持ち回りでおこなっていたらしく、これは下鴨神社荘園としての毎年の五穀豊穣や国家安穏、天下泰平を祈って始められたものでしょう。「荘園」は1580年に豊臣秀吉が太閤検地を行い、荘園制度を廃止するまで続きましたが、この志津の庄の下賀茂荘園も、戦国時代になってからも本年貢として神服の綿が収納されていたとの記録(東山御文庫記録23号)があり、最後の方まで荘園が続いていたのではないかと言われています。
さて、1192年からの鎌倉時代、その後の室町時代(1336年~1573年)の志津地区についての歴史は当時の文書が残っていないためあまり知られていませんが、室町時代中頃の1458年(長禄2年9月14日)に志津の庄には室町幕府が造った五山派系(臨済宗)のお寺が23か寺もあったとの記録「蔭涼軒日録」があります。それによると、志津庄には祥瑞寺を筆頭に、総持寺、瑞應寺、両足寺、大通寺、泉林寺、真福寺、南朝寺、地蔵寺、宝成院、養老庵、傳泉庵、霊瑞庵、宝泉庵、永隆庵、知勝庵、龍勝庵、瑞泉庵、瑞源庵、續東庵、宗正庵、来光寺の23箇所の道場(寺)があったと書かれています。当時越前国を統治していた守護の斯波氏と守護代の甲斐氏の不仲で戦乱となり(長禄合戦)、これらの寺の領地が「閉所」(没収)とされたことを、領主である賀茂社の社家が室町幕府へ訴えている文書のようです。越前国ではその後、守護代の朝倉氏が斯波氏と対立して守護大名となり、本格的な戦国時代へと入っていきます。
志津の庄にあったといわれるこれら23か寺の名前を見ると、明治の最初に廃寺になり、今も地名に残る「南朝寺」や、笹谷に残る地蔵があったと思われる「地蔵寺」(元は南朝寺自体が地蔵院といわれたらしい)があります。また、笹谷地区には今も「随応寺」の地名が残っており、これも「瑞應寺」のことではないかと思われます。これら以外に今も残る名前の寺は見当たりませんが、今の善福寺はこの中の「真福寺」が前身となった可能性もあります。いずれにせよ、この志津地区は、賀茂神社を中心として室町幕府の五山派のお寺があり、地方にありながらも当時の室町幕府の都(京都)を模した、地方都市であったようです。
尚、この当時の越前は、浄土真宗においては、三河や美濃地方から奥越を抜けて伝わってきた、初期真宗の高田系の寺院・道場や、派生した讃門徒系の大町専修寺、證誠寺(今の横越本山)、真照寺(今の鯖江本山誠照寺)、専照寺(今の中野本山)などの初期真宗の教線が徐々にさかんになっていたようです。
蓮如上人の布教によって京都本願寺の教線(今の本願寺派、大谷派)が越前に急速に広まるのはこれより数十年あとからのことでした
さて、1192年からの鎌倉時代、その後の室町時代(1336年~1573年)の志津地区についての歴史は当時の文書が残っていないためあまり知られていませんが、室町時代中頃の1458年(長禄2年9月14日)に志津の庄には室町幕府が造った五山派系(臨済宗)のお寺が23か寺もあったとの記録「蔭涼軒日録」があります。それによると、志津庄には祥瑞寺を筆頭に、総持寺、瑞應寺、両足寺、大通寺、泉林寺、真福寺、南朝寺、地蔵寺、宝成院、養老庵、傳泉庵、霊瑞庵、宝泉庵、永隆庵、知勝庵、龍勝庵、瑞泉庵、瑞源庵、續東庵、宗正庵、来光寺の23箇所の道場(寺)があったと書かれています。当時越前国を統治していた守護の斯波氏と守護代の甲斐氏の不仲で戦乱となり(長禄合戦)、これらの寺の領地が「閉所」(没収)とされたことを、領主である賀茂社の社家が室町幕府へ訴えている文書のようです。越前国ではその後、守護代の朝倉氏が斯波氏と対立して守護大名となり、本格的な戦国時代へと入っていきます。
志津の庄にあったといわれるこれら23か寺の名前を見ると、明治の最初に廃寺になり、今も地名に残る「南朝寺」や、笹谷に残る地蔵があったと思われる「地蔵寺」(元は南朝寺自体が地蔵院といわれたらしい)があります。また、笹谷地区には今も「随応寺」の地名が残っており、これも「瑞應寺」のことではないかと思われます。これら以外に今も残る名前の寺は見当たりませんが、今の善福寺はこの中の「真福寺」が前身となった可能性もあります。いずれにせよ、この志津地区は、賀茂神社を中心として室町幕府の五山派のお寺があり、地方にありながらも当時の室町幕府の都(京都)を模した、地方都市であったようです。
尚、この当時の越前は、浄土真宗においては、三河や美濃地方から奥越を抜けて伝わってきた、初期真宗の高田系の寺院・道場や、派生した讃門徒系の大町専修寺、證誠寺(今の横越本山)、真照寺(今の鯖江本山誠照寺)、専照寺(今の中野本山)などの初期真宗の教線が徐々にさかんになっていたようです。
蓮如上人の布教によって京都本願寺の教線(今の本願寺派、大谷派)が越前に急速に広まるのはこれより数十年あとからのことでした