誠照寺派の末寺門徒は中世末ごろから江戸時代初めごろには、本山がある鯖江を中心とした丹南地区、西は越前海岸まで、東は河田、池田から峠を越した岐阜県の美濃地区に広がりました。
江戸時代初中期の寛文(1661年~1672年)頃に幕府の指示で作られたといわれる、「越前国寺庵」という越前国内における寺院台帳には、讃門徒宗鯖江派として誠照寺も含めて28か寺が載っています。
誠照寺派マップ

 上のマップの、

ドロップピンは「越前国寺庵」に載っていて現在もその地にあるお寺。

pinは、「越前国寺庵」に載っていたけど(1660年代にはそこにあった)、移転もしくは廃寺になって今はその地にないお寺。

新寺は、「越前国寺庵」に載っておらず、その後に造られたか、移転をしてきて現在その地にあるお寺です。

これを見ると、中世(鎌倉、室町)以来、どのような人の流れがあったのか分かります。誠照寺を中心に、西は越前海岸まで、東は池田から険しい峠を越えて、美濃地方まで人の交流があったため、誠照寺の末寺門徒が広がったと思われます。
 
 ところで、鯖江という地名は、誠照寺の門前町のことだったとは聞いたことがあったのですが、こちらのサイトを拝見したら、鯖江市が今のようになったのは昭和の大合併からで、それより前はこのような状況だったらしく、「鯖江」と呼ばれるエリアは舟津村の中のごく一部分だけだったようです。ここが誠照寺周辺だったということでしょうか。
(写真はサイトから転載させていただきました)
old-sabae

 室町時代ごろまで、「鯖屋荘」という嵯峨御所大覚寺の所領(荘園)が現在の鯖江市あたりにあったことが分かっているようですが、「鯖屋荘」と誠照寺がある「鯖江荘」は同じものなのでしょうか? 
大覚寺統である御二条天皇からかつて「真照寺」という寺号を賜ったのも何か関連があるのではないでしょうか。
福井県史によると、鯖屋荘はのちの白鬼女村(今の舟津の南あたり?)だったということで、今の誠照寺門前より南に位置するのだと思いますが、研究者の文献によっては、「鯖屋の如覚」とか「鯖屋誠照寺」と書いてあるものもあるので、昔、車の道場だった初期の頃は「鯖屋」と呼ばれていて、現在地に移ってから「鯖江」と呼び方が変わったのかなぁと思うのですがどうなんでしょうか?。
 上の誠照寺派末寺マップを見ていると、昔は海から鯖を干物にして運び、舟津あたりを中心とした物流、商いをしていた「鯖屋」があり、その人々を中心として誠照寺真宗の教線が延びていったのかなぁ・・・・という風にも思えました。

本山敷地図

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