先日の本山御正忌報恩講の大逮夜に御影堂の内陣出勤をさせていただきました。
今回は若手の人たちに内陣に出仕をしてもらい、法務作法に慣れてもらうということだったようです。本山内局の方々のご尽力で色々と考えられて企画をされたことで、本番前に勉強会や練習もさせていただけましたし、初めてのことでしたが色々と勉強になりました。この年になっても「若手」といわれるのは僧侶ならではでしょうか(笑。
御影堂に出仕をさせていただいたのは2回目だったと思いますが、報恩講では初めてのことです。
正信偈のお勤めをしながら、少し前までは父がここで同じようにお勤めをしていたであろうし、数十年前だと祖父が同じ事を、その前は・・・と、長い歴史の中で、そこに座っている人間はそれぞれ交代しているけれど、それぞれ同じお寺さんたちが、代々人は変われど同じ法統を大切につなげて、共に変わらず報恩講を執り行っているという、時空を超えたところでの「いのちのつながり」を感じました。
そんな、自分個人の命や我執を超えたところでの、広い意味での「わたしのいのち」というのを感じ取ることが出来るのは、伝統、法統の中に身を置かせていただいている私たち僧侶ならではの有難いことだなぁと思いました。
お寺の古文書を整理していたら出てきたものです。ちょっとご紹介します。
昔は封建時代で、寺格によって座れる席も厳しく決まっていたようです。
上の写真は文久元年(1861年)の内陣一家(院家寺院)の免許状(執事 西福寺より)です。私の曾爺さんのお兄さん「量海法師(1812年生~1889年没)」(善福寺15世)の頃です。
すばらしい書体ですが、紙の虫食いがかなりひどいですね・・・・。
こちらは、明和2年(1765年)の余間老分の免許状(誠照寺秀実上人より)です。善福寺12世の覚應法師(1730年生~1794年没)の時のようです。それにしても秀實上人の花押はかっこ良いですね。
そしてこれは享保八年(1723年)の飛檐老分免許状(誠照寺秀如上人より)です。うちに今残っているものではこれが一番古いもののようです。善福寺11世の白立法師(?生~1762年没)の時のようです。
今回は若手の人たちに内陣に出仕をしてもらい、法務作法に慣れてもらうということだったようです。本山内局の方々のご尽力で色々と考えられて企画をされたことで、本番前に勉強会や練習もさせていただけましたし、初めてのことでしたが色々と勉強になりました。この年になっても「若手」といわれるのは僧侶ならではでしょうか(笑。
御影堂に出仕をさせていただいたのは2回目だったと思いますが、報恩講では初めてのことです。
正信偈のお勤めをしながら、少し前までは父がここで同じようにお勤めをしていたであろうし、数十年前だと祖父が同じ事を、その前は・・・と、長い歴史の中で、そこに座っている人間はそれぞれ交代しているけれど、それぞれ同じお寺さんたちが、代々人は変われど同じ法統を大切につなげて、共に変わらず報恩講を執り行っているという、時空を超えたところでの「いのちのつながり」を感じました。
そんな、自分個人の命や我執を超えたところでの、広い意味での「わたしのいのち」というのを感じ取ることが出来るのは、伝統、法統の中に身を置かせていただいている私たち僧侶ならではの有難いことだなぁと思いました。
お寺の古文書を整理していたら出てきたものです。ちょっとご紹介します。
昔は封建時代で、寺格によって座れる席も厳しく決まっていたようです。
上の写真は文久元年(1861年)の内陣一家(院家寺院)の免許状(執事 西福寺より)です。私の曾爺さんのお兄さん「量海法師(1812年生~1889年没)」(善福寺15世)の頃です。
すばらしい書体ですが、紙の虫食いがかなりひどいですね・・・・。
こちらは、明和2年(1765年)の余間老分の免許状(誠照寺秀実上人より)です。善福寺12世の覚應法師(1730年生~1794年没)の時のようです。それにしても秀實上人の花押はかっこ良いですね。
そしてこれは享保八年(1723年)の飛檐老分免許状(誠照寺秀如上人より)です。うちに今残っているものではこれが一番古いもののようです。善福寺11世の白立法師(?生~1762年没)の時のようです。