善福寺に伝わっている、かつて本尊として門徒のあつい信仰をうけていたであろう、先人たちの思いがこもった貴重な法宝物を何点かご紹介いたします。
まずは、阿弥陀様の絵像です。
伝恵心僧都御筆「三方正面阿弥陀如来絵像」です。高田専修寺(越前)の真教上人から息男と共に下付されたと寺伝にあります。いわゆる「方便法身尊像」ですが、本願寺教団以外では結構後の時代まで、「三方正面阿弥陀如来」(どの方向から拝んでも正面に見える)と呼んでいたらしいです。
専門家によれば、これは本願寺教団が蓮如上人の頃から用いていた、室町時代(1490年~1500年頃)の絹本着色の方便法身尊像であるとのことです。寺伝が正しければ、何らかの理由で越前熊坂の専修寺に伝わり、それが当寺に伝わったものと思われます。
この絵像に裏書はありませんが、正徳4年(1714年)に誠照寺17世の「秀如上人」から定書を別途いただいています。
(定 一 恵心僧都御筆三方正面阿弥陀如来無相違者也 正徳辛午四歳五月四日 誠照寺 釈秀如(花押))
こちらも阿弥陀様の絵像です。
こちらは紙本着色のものです。
見るところかなり古筆だと思われますが、年代、由緒等は不明です。前住職は「笑う阿弥陀さん」と言っていました(笑
次に、名号本尊です。こちらは、放光十字名号です。

絹本に載金と金泥で書かれた「帰命尽十方無碍光如来(きみょうじんじっぽうむげこうにょらい)」の“十字名号”です。1500年前後のものでしょうか。
特徴は本願寺教団(蓮如上人、実如上人の頃の無碍光本尊は光明が48本)と違って、当寺のは光明の数が45本しかありません。原始真宗門流で使われていたものや、誠照寺教団で往古使われていた十字名号は光明が48本無いものが多いとの話もあります。
六字名号です。
「南無阿弥陀仏」のお名号ですが、よく見ると筆書きのものではありません。さらに、かなり古いものを裏打ちしなおして表装してあるようです。道場の本尊としてかけられていたものでしょうか。下から拝んでも真正面に見えるようにか、上に行くほど文字が大きくなっています。
寺伝では伝・弘法大師筆ということになっています。
十高僧連坐像(天竺震旦高僧連坐像)です。
インドと中国の高僧を描いたものと思われますが、古くて横の札名が読めません。岡崎「妙源寺」様に伝わる、光明本尊(3軸で1揃のもの)などと同種のものかと思われます。仏光寺系などで使われていた、1軸の大型の光明本尊を切り取った可能性もありますが、背景に光明がないので、元来これだけで単独の絵像と思われます。誠照寺史によれば、「往古九高僧なる連座御影を使用した形跡がある・・・、道性如覚の没後光明本尊別開きの絵系図流行を見た当時として・・・云々」とのことなので、三河の専海系の流れを汲む門流などでは、日本の高僧図とインド中国のこの高僧図を別軸として、名号軸と3軸で1セットとして使われていたと思われます。
対となる日本の高僧連坐像(鯖江派の九高僧図)もかつてあったはずですが、現在当寺には残されていません。
現在、当寺の余間に掛けられているいわゆる七高僧と聖徳太子像の裏書が「正徳4年(1714年)」ですので、それまでは脇掛けとしてこの古いタイプの連座像が拝まれていたのではないかと思います。
先ほどの三方正面阿弥陀如来の定書も正徳4年なので、どうもこの年に内陣の宝物をがらりと変更したのではないかと思われますが真相はいかに・・・・。
まずは、阿弥陀様の絵像です。

専門家によれば、これは本願寺教団が蓮如上人の頃から用いていた、室町時代(1490年~1500年頃)の絹本着色の方便法身尊像であるとのことです。寺伝が正しければ、何らかの理由で越前熊坂の専修寺に伝わり、それが当寺に伝わったものと思われます。
この絵像に裏書はありませんが、正徳4年(1714年)に誠照寺17世の「秀如上人」から定書を別途いただいています。
(定 一 恵心僧都御筆三方正面阿弥陀如来無相違者也 正徳辛午四歳五月四日 誠照寺 釈秀如(花押))
こちらも阿弥陀様の絵像です。

見るところかなり古筆だと思われますが、年代、由緒等は不明です。前住職は「笑う阿弥陀さん」と言っていました(笑
次に、名号本尊です。こちらは、放光十字名号です。

絹本に載金と金泥で書かれた「帰命尽十方無碍光如来(きみょうじんじっぽうむげこうにょらい)」の“十字名号”です。1500年前後のものでしょうか。
特徴は本願寺教団(蓮如上人、実如上人の頃の無碍光本尊は光明が48本)と違って、当寺のは光明の数が45本しかありません。原始真宗門流で使われていたものや、誠照寺教団で往古使われていた十字名号は光明が48本無いものが多いとの話もあります。
六字名号です。

寺伝では伝・弘法大師筆ということになっています。
十高僧連坐像(天竺震旦高僧連坐像)です。

対となる日本の高僧連坐像(鯖江派の九高僧図)もかつてあったはずですが、現在当寺には残されていません。
現在、当寺の余間に掛けられているいわゆる七高僧と聖徳太子像の裏書が「正徳4年(1714年)」ですので、それまでは脇掛けとしてこの古いタイプの連座像が拝まれていたのではないかと思います。
先ほどの三方正面阿弥陀如来の定書も正徳4年なので、どうもこの年に内陣の宝物をがらりと変更したのではないかと思われますが真相はいかに・・・・。