秋田からの想い

毎年寺の報恩講の直前になると、秋田の干拓地へ出られたご門徒さんから、ご仏前と一緒にあずきやかぼちゃなどの採れた野菜を送ってくださいます。本日も宅配便で届きました。
かぼちゃ&あずき

 昨年父が亡くなったときも、秋田からなんと10数時間もかけて、特急で駆けつけてくださいました。本当に頭が下がる思いです。
 故郷を遠く離れて生活をされていても、故郷のことやお寺のことを大切に思って下さるのはとても嬉しいことですし、大変尊いことだと思います。自分が逆の立場だったら、同じような思いを持てるだろうか?と考えさせられます・・・・。
 気持ちいっぱいが詰まった野菜、大切に使わせていただきたいと思います。
ありがとうございました。

昔の報恩講の思い出。

一昨日、門徒総代さんと打ち合わせをしている中で、総代さんの子どもの頃の報恩講の思い出話をしてくださいました。50年ほど前の話でしょうか。
 昔は、その年一番の楽しい行事であり、子どもたちも普段着ることのない晴れ着を着てお寺にお詣りしたようです。着慣れないものだから、お菓子とかをこぼして汚してしまい怒られたとか。
当時は3日間法要が勤まり、朝お参りに来られた人は夜までそのままお参りされたた方も多く、そのままお泊りになる方も。
そういえば、私が子どもの頃でも御院さんも皆さん泊まられてましたね。
報恩講夜

 そして、今は屋台は人形焼屋さん1軒だけが来られますが、当時は狭い境内に屋台が10軒以上もそろい、飴やおもちゃなどを売っていたようです。子どもたちはそれが楽しみで、みんな屋台目当てに来ていたようで、おもちゃとかを触ると、「おめーら、汚ねー手で触るなよ!」と店のおっちゃんに怒られたらしいです。そして、子どもたちが火薬ピストルなどを鳴らしたり、お寺の縁を走り回ったりするもんだから、本堂でお説教を聴聞している人はお説教の声が聞こえず、入り口近くに座ってる人は、反対を向いて「おまえら!静かにせーよ!(怒」と、子どもたちにお説教をするのが仕事だったらしいです(笑
なんだか楽しくほほえましい、古き良き時代という感じですね。
 それに比べて、現代は皆が忙しく、ゆったりとした時間は流れていないように思います。科学技術や医学の進歩、自家用車の普及や交通インフラの整備、テレビやインターネットでの即時の情報伝達や世の中のムダの排除などで、生活はとても便利に、そして短時間になんでもできるようになりました。ですが、昔の話を聞かせてもらうと、今と昔とどちらが良い悪いということではなく、失ってしまった喜びも沢山あるなぁと、しみじみ感じさせられました。

ただいま報恩講とご巡教の準備中なのですが。。。

 11月3日の当院報恩講に併せて、今年は御法主様のご巡教をいただくので、ただいま色々と準備中です。今年は9月1日の永代経、23日の前住職1周忌、11月3日の報恩講&ご巡教と秋のイベント、いや仏事が多くて、なんだか準備が大変です。
 やらなければならない事をリストアップしてやっているつもりなのですが、そもそもすべて初めてのことが多く、リストアップそのものが的を得ているのかどうかすらわかりません・・・。
 実際自分がやってみて初めて、父が今までやってきたことのありがたみがようやく分かった感じです。
 というわけで、気持ちが焦るばかりで、結局はぼちぼちしか進んでおらず、法要の前日に慌てながら、「まぁ、明日もなんとかなるでしょ・・・」といつものダメパターン?を歩みそうな気もします(汗;
 でも、いつも門徒さん方も誠意のあるお手伝いをしてくださいますし、お仲間のご住職さんも毎度的確で親切なアドバイスを下さり、皆さん方のお陰だなぁ~と、とてもありがたく思っています。

本堂

 
 最近の個人的なお気に入りは、ちょっと心身が疲れた時、誰もいない本堂でこっそりと、静かに阿弥陀様に向かってお座りをしてボーっとすることです。単に年をとっただけなのかもしれませんけど。
なんとも言えないような守られ感というか、安心感に包まれながら、心が満たされていくような不思議な感覚におちいります。
先祖代々や往生された親しかった人みんなが見守ってくださっているような気がするからでしょうか?。
 報恩講の準備中にもつい、「疲れたなぁ~」と、お座りしてボーっとしてしまうので、これが準備が進まない原因なのかもしれません・・・・。

空から栗が。。。

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本堂の裏山の崖の上のところに、大きな栗の木があります。
たぶんこの10年くらいでグーンと大きくなったもので、ここ数年はたくさんの栗のイガと栗の実を降らせます。
あまりにも、イガや栗の実や葉っぱが大量に落ちてくるので、切ってしまった方がいいのかなぁとも思いますが、実は食べられるのでとりあえずは今年もそのままにしています。小粒ですが味はわりと甘いです。
坊守は毎朝大量の栗の実とイガを拾うので、腰痛になってしまいました。
そんな栗もここ2,3日、あんまり落ちてこなくなりました。
だんだん秋が深まってきているんですね。



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父の1年目の祥月命日でした。

 父が昨年往生してから今日でちょうど1年が経ち、本当にたくさんの方々のお陰で、全くすべてに不慣れな私が今日を迎えることができたことに心から感謝しています。
1周忌は前月にすませたので、今日は家族だけで静かに仏前でお参りをしました。
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 ほんと、あっという間の1年だったなぁ~というのが実感です。ただ単に年をとったせいかもしれませんけど。
 1年経って感じることは、「1年間も会わないとやっぱりとても寂しい・・・」ということ。頭では「もう往生したんだから」と理解しているつもりでも、心に寂しさがやはり次々にこみ上げてきて、ふとした拍子に涙ぐんでしまうこともあります。昨年、主治医から父の終末期を告げられた時はやはりうすうす分かっていたことでもショックだったことを覚えています。その後残された時間でグリーフケアについて少し勉強し、死別の際の家族の不安定な精神状態があたりまえだということを認識したり、御文章をあらためて何度も拝読したりしたせいか、実際の臨終にあたっても少し客観的に父の死を受け止めることが出来たようには思います。ですが、本能的な感覚というか、心の中ではやっぱり喪失感や、最期まだ何かしてあげられることがあったんじゃないかという自責の念や、悲しみといったものが次々と湧き上がってきます。
 しかし最近、そんなとても不安だったり悲しい気持ちだったりするときに、お念仏を唱えて心がすーっと安心に向かっていく自分がいます。別に自分から念仏を唱えて気持ちを楽にしようとしているわけでもないし、かといって何かに感謝してお念仏を唱えたわけでもないんですが、なんだか自然に唱えていて、その声を聞いているうちに再び気持ちが落ち着いてく感覚。これが単なる自己暗示的な作用なのか、はたまた阿弥陀様からの呼び声なのか、浄土の父からの還相回向なのか頭で理解は出来ませんが、いずれにせよ「お念仏とはありがたいことだなぁ」ということだけは少し味わせていただいています。
 



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